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「朗読を考える」トップ

このカテゴリーでは、朗読についての私の考えを紹介します。あまり深入りはしません。いろいろと深く考えてはいるのですが、確信の持てる結論にはなかなか辿り着かないのです。それに、あまり細かいことをごちゃごちゃかいても、こじつけや屁理屈にしかならないような気がします。ですから、ここでは感覚的にとらえたものをスパッと言ってのける、そんな記事にしようかと思っています。


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posted by rodoku_DB at 2010-08-20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 朗読を考える

朗読とは

狭義の朗読の定義

「朗読」とは、「テキストを声に出して読む、表現の一形態」だと考えます。

ただし、「朗読」という言葉の使用例でいうと、この定義では上手くいかないケースもあるようです。例えば、裁判では「起訴状を朗読する」と言います。これは表現でも何でもありませんから、私の定義を基準にすると例外的な使用法と言えます。

表現と音読

表現性の有無というのが多少問題になるかもしれません。表現性の伴わないものは「朗読」と区別して「音読」と呼んでもいいかもしれません。しかし、実際は生身の人間が声に出す以上は表現性がゼロということはあり得ないでしょう。それでも区別したい人は極力表現しないように努めて「音読です」と宣言すればそれは「音読」(あるいは「音訳」)なのだと思います。

「読む」とは

そもそも、「読む」とはどういうことでしょう。私は、以下のように定義してみます。

読む
<黙読の場合>テキストの理解。「こう書かれていますよ」ということを把握する。
<読み聞かせる場合>テキストの紹介。「こう書かれていますよ」ということを伝える。
では、「読む」と似て非なるものも定義してみましょう。
語る
自分の理解していることを(纏まった文で)他者に伝える。
喋る
状況に応じて思い付くまま言葉を口に出す。
演ずる
あるキャラクターを想定して、そのキャラクターとして(そう見えるように)振舞う。

「朗読」と「語り」

朗読をやっていると「朗読と語りはどう違うんだ」と言うことがよく話題に上ります。これは、それだけ区別が難しいということを物語っています。そこで、私は思うのです。「そんな難しいものをわざわざ区別する必要があるのか」と。

どうしても区別したいなら、やっている人が主観で決めればいいのではないでしょうか。「私は読んでるつもりだから『朗読』」「私は語ってるつもりだから『語り』」と

それでも客観的に区別したいという人は、外から見て分かるスタイルの違い、たとえば「テキストを持たなければ『語り』」とか、そういう違いを明示して宣言すればいいのだと思います。
ただし、「朗読」とか「語り」とか、一般名詞を勝手に定義すると異論が出るかもしれませんので、「○○流朗読」とかの固有名詞にした方が無難かもしれません。

posted by rodoku_DB at 2010-08-20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 朗読を考える

私のやりたい朗読

一般的な朗読の定義と、自分の目指す朗読とは別にして考えなければいけません。いや、よくあるんですよ。「朗読とは○○である」と声高に叫んでいるけど、「それは、単にあなたがやりたい朗読でしょ」なんていうことが。

どこからどこまでを朗読とみなすか

私のやりたいのは広義の朗読。それは、「読みもすれば語りもする、時には演じてみたりして、話芸全般の良き処を借りて口演する、しかしテキストは必ずそこにあり、一字一句疎かにしない」と言ったところでしょうか。つまり、テキスト主体というところから外れなければ何でもあり、と言うことです。

なんの為の朗読か

私が目指すのは「芸としての朗読」です。自分が楽しむための趣味の朗読ではなく、教育の手段としての朗読ではなく、福祉のための音訳ではなく、多くの方々に愉しんで頂ける芸としての朗読です。お金を払ってでも観たい聴きたいと思えるような芸です。

さらに突き詰めたいこと

文学としての朗読

私は、朗読を「文学の音声化」だとも思っています。物語を伝えるだけではなく、文学作品を文学性を損わずに声で届けるのが目的なのです。物語を伝えるだけなら映像でも、演劇でも、漫画でもいいのです。では、なぜ朗読なのかというと、文章の素晴らしさを伝えたいからなのです。

ここで、疑問が一つ湧いてきます。「それなら普通に黙読すればいいんじゃないの?」 半分YESです。残り半分のNOは次の項で。

音楽としての朗読

言葉は音を伴います。コンピュータ言語のように伴わないものもありますが、少なくとも日本語は音を伴う言語です。
言葉や文章に音があるということは「音楽性」を持つ可能性があるということであり、ことに文学は音楽性が強く出ます。「リズムのない文章なんて誰が読むんだ」なんていう作家もいるぐらいです。

私がやりたいのは、「文学の音楽性を伝えたい。文学という音楽の良き演奏者になりたい」ということです。

文章を音楽として演奏する能力は人によってまちまちでしょう。上手く演奏できない人は作品の音楽的魅力の一部しか享受できないことになります。そういう人のために、演奏家、つまり朗読者が必要なのです。 自分で演奏できる人でも、自分より上手な演奏、自分と違った演奏を聴きたいと思う人もいるでしょう。

文学に音楽性を求めない人、自分の演奏(脳内演奏も含む)に満足している人、優秀な朗読者を知らない人もいるでしょう。朗読に人気がないのだとしたら、そういう人が多いのも原因だと私は考えますが、何よりも優秀な演奏者がいないことには話になりません。私はそういう、良いサンプルになる演奏者になりたいのです。

また、“声”そのものの魅力というものもあります。音楽は楽曲の魅力だけでなく、楽器や声の音色も大事な要素であり、音色だけでも心地よくなれるものです。それと同じように、物語で描かれているものや文章の素晴らしさだけでなく、朗読者の声の魅力でも愉しむ価値があるのではないかと思います。

そして、私に求められるもの

以上のような朗読を実現するためには、私は、話芸の専門家であり文学の専門家であり音楽の専門家であり声の専門家でなければならないと考えています。

posted by rodoku_DB at 2010-08-21 | Comment(2) | TrackBack(0) | 朗読を考える

「花もて語れ」より喚起されし逆説的朗読論

朗読をテーマにした漫画が一部で評判らしいので買って読んでみました。片山ユキオ作・画(朗読協力 東百道) 「花もて語れ」という作品です。 Amazonの内容説明を引用します。

朗読ってこんなに熱いの!? 熱血&癒やし系コミック
  • あらすじ/両親を亡くし地方に住む叔母に引き取られた、小学1年生の佐倉ハナ。引っ込み思案な性格で周囲と打ち解けられなかったが、ある日、ハナは「朗読」をやっていると言う教育実習生と出会う。やがて22歳になったハナが繰り広げる「癒やし系熱血『朗読』ストーリー」、待望の第1集!
  • 本巻の特徴/(おそらくは)日本初となる本格朗読漫画! 漫画で朗読を表現する驚きの演出! 「朗読なんて……」と思った人こそ、ぜひ読んでみてください!! (この巻の朗読作品/宮沢賢治作「やまなし」他)

まあ、面白いです。登場人物による解説ゼリフが鬱陶しいけど、専門分野をテーマにした漫画ではごく普通の手法なのでしかたがないでしょう。

作中で、ポイントとなる語句を挙げてみます。

  • 視座(視点の転換)
  • 伝えたい気持ちがあれば、きっと伝わる
  • 意味がわからないと、1行たりとも声に出せない。
  • →黙読では多くの人は意味がわからなくても読んでしまう
  • →正しい意味がわかるまでくり返し読み込まなければいけない。
  • 朗読はイメージに始まり、イメージに終わる
  • 他人が勝手にイメージした声なんて聴かされたら、自分のイメージを壊されて、がっかりするだけ。(朗読者以外の意見として)

なるほど、いい所をついていますね。具体的な説明は実際に読んでいただいた方が分かると思いますので省きます。

さて、本題です。上記の中から、「逆のことも言えるんじゃない?」というものを挙げてみます。

意味がわからないと、1行たりとも声に出せない?

これは、いきなり提示された「その時、私は『お母さん』と言った。」という文を声に出して読もうとした時、情報が足りていないのだからむしろ読めない方が正解であるということです。「その時」も「私」も「お母さん」も、具体的にどんな時かどんな人かによってバリエーションは数限りなく考えられます。それらの具体的な情報が分からないと「どんな声」で読んだらいいのか決まらないというのです。

しかし――と、ここで反論してみます。まず、「声に出せない」は言い過ぎだろうということ。東百道氏の「朗読の理論」でも、「それぞれの前提条件によってまったく違った音声言語が表現されていることに気づくはずである」とは書いてありますが、「1行たりとも声に出せない」といった類の記述は見あたりません。まあ、ドラマとして面白くするためには「主人公が唯一の真実をつかんだ」という展開は大事ですから、漫画としてはいいんじゃないかと思います。

で、これでは逆説にもなんにもなっていませんね。では、こんなことを言ってみます。 「はじめて出会う文こそ想像力が喚起される」 こんなことがよくあります。最初に黙読したときに感動した作品を朗読しようとして読み込んでいるうちに、はじめの感動が薄れていって意味まで分からなくなる、なんてことが。これを乗り越えて再び沸き上がるまでさらに読み込まなければいけないのですが、中途半端に読み込むくらいなら読みやアクセントの確認程度にとどめてほとんど初見で読む方が良かったりします。実際、ライブでお客様から提示された作品を初見で読む朗読者を知っていますが、読み込んで挑んだ朗読に決して劣らないものでした。

もちろん、初見でどれだけ分かるかというのは、作品によって、読む人によってかなりの差はあると思います。娯楽小説なんかは初見でスラスラと読めて意味がしっかりつかめる方が良いでしょう。朗読との相性という点では、読み込むほど理解が深まるような作品がいいのかもしれません。そして、その深い理解をすべて声に乗せて伝えられるといいですね。さらに欲張るなら、初見のインパクトと読み込んだ深まりとをどちらも伝えられるような作品・朗読が理想です。

朗読はイメージに始まり、イメージに終わる?

ここは、いきなり、逆説的ひと言を。 「朗読は言葉に始まり、言葉に終わる」 作品との最初の出会いは言葉です。文字であり、文であります。作家は表現したいことを文字に、文に込めて作品を創作するのでしょう。最適な言葉・文構造を選択し、最終的に表現された文字の羅列。これが作品のすべてです。

朗読者はまず、作家が選び抜いた言葉と対峙すべきではないでしょうか。深い意味を考える必要はなく、そのまま受ける。考えなくとも入ってくるもの、広がるものがあるはずです。

次の段階として、文字で直接表わされないもの、例えば概念、情念、具象イメージなどを豊かに広げていけばいい。もちろん、言葉と対峙した時に起ったものも使えます。

そして最後に、言葉に返します。作家がすべてを文字に込めたように、朗読者はすべてを音声に込めるのです。作家が最適な言葉を選ぶように最適な音を選ぶのです。

というのが、私の理屈です。ここでは、[作品の言葉]→[朗読者のイメージ等]→[朗読者の音声]という範囲で「言葉に始まり、言葉に終わる」と言っています。前出の「朗読の理論」を読むと、どうやら[朗読者のイメージ]→[朗読者の音声]→[聴き手イメージ]という範囲で「イメージに始まり、イメージに終わる」と言っているようです。つまり、着目する範囲が違うだけの話しなのかもしれません。

ついでに、「イメージ」について少し書きます。朗読の世界ではどうも「イメージ至上主義」のようなものが氾濫しており、そのために表現の範囲を狭めているのではないかと思うのです。イメージという言葉をそれぞれがどういう意味で捉えているかは分かりませんが、本来視覚的な意味合いが強い言葉です。人間には五感があり視覚の他にも聴覚・嗅覚・触覚・味覚があり、五感以外にも内的なものも含めて様々な感覚があります。「イメージ」を連呼することによって視覚的なものばかり思い描いて他の意識を持たずに朗読しているとしたら、かなりもったいない話しです。私はお客様に「絵が浮かんだ」と言って頂ければ嬉しいですが、いつか「匂いのする朗読」や「客席に陽が照ったり、冷たい風が吹いたりする朗読」をしたいと願っています。

では、その「イメージ」より広い範囲の感覚をどういえばいいのでしょうか。 「田村操の朗読教室」では「表象」という言葉を使い、「表象とは五感を総動員して、あたかもその場にいるかのように感じることです」「イメージというと映像中心にとらえられがちですが、表象は心情も含めて総合的にその場の状況や登場人物について意識できることです」と書いています。

表象
知覚に基づいて意識に現れる外的対象の像。対象が現前している場合は知覚表象。記憶によって再生される場合は記憶表象。想像による場合は想像表象。(『広辞苑』第六版)
私は、「イメージ」よりは「表象」を支持したいところですが、ちょっと伝わり難いかなとは思います。伝わりやすいけれど誤解を招く言葉と、伝わり難いけれども正しく言い表している言葉。どちらがいいんでしょうかね。


(もっと突き詰めてから記事にすべきだとは思いますが、「花もて語れ」の出版に合せてタイムリーな記事にしたかったのであえてここで出しました。いずれもっと整理して記事にするかもしれません。その時には内容が変わっているかもしれませんが……。)

posted by rodoku_DB at 2010-10-07 | Comment(2) | TrackBack(0) | 朗読を考える