一般的な朗読の定義と、自分の目指す朗読とは別にして考えなければいけません。いや、よくあるんですよ。「朗読とは○○である」と声高に叫んでいるけど、「それは、単にあなたがやりたい朗読でしょ」なんていうことが。
どこからどこまでを朗読とみなすか
私のやりたいのは広義の朗読。それは、「読みもすれば語りもする、時には演じてみたりして、話芸全般の良き処を借りて口演する、しかしテキストは必ずそこにあり、一字一句疎かにしない」と言ったところでしょうか。つまり、テキスト主体というところから外れなければ何でもあり、と言うことです。
なんの為の朗読か
私が目指すのは「芸としての朗読」です。自分が楽しむための趣味の朗読ではなく、教育の手段としての朗読ではなく、福祉のための音訳ではなく、多くの方々に愉しんで頂ける芸としての朗読です。お金を払ってでも観たい聴きたいと思えるような芸です。
さらに突き詰めたいこと
文学としての朗読
私は、朗読を「文学の音声化」だとも思っています。物語を伝えるだけではなく、文学作品を文学性を損わずに声で届けるのが目的なのです。物語を伝えるだけなら映像でも、演劇でも、漫画でもいいのです。では、なぜ朗読なのかというと、文章の素晴らしさを伝えたいからなのです。
ここで、疑問が一つ湧いてきます。「それなら普通に黙読すればいいんじゃないの?」 半分YESです。残り半分のNOは次の項で。
音楽としての朗読
言葉は音を伴います。コンピュータ言語のように伴わないものもありますが、少なくとも日本語は音を伴う言語です。
言葉や文章に音があるということは「音楽性」を持つ可能性があるということであり、ことに文学は音楽性が強く出ます。「リズムのない文章なんて誰が読むんだ」なんていう作家もいるぐらいです。
私がやりたいのは、「文学の音楽性を伝えたい。文学という音楽の良き演奏者になりたい」ということです。
文章を音楽として演奏する能力は人によってまちまちでしょう。上手く演奏できない人は作品の音楽的魅力の一部しか享受できないことになります。そういう人のために、演奏家、つまり朗読者が必要なのです。
自分で演奏できる人でも、自分より上手な演奏、自分と違った演奏を聴きたいと思う人もいるでしょう。
文学に音楽性を求めない人、自分の演奏(脳内演奏も含む)に満足している人、優秀な朗読者を知らない人もいるでしょう。朗読に人気がないのだとしたら、そういう人が多いのも原因だと私は考えますが、何よりも優秀な演奏者がいないことには話になりません。私はそういう、良いサンプルになる演奏者になりたいのです。
また、“声”そのものの魅力というものもあります。音楽は楽曲の魅力だけでなく、楽器や声の音色も大事な要素であり、音色だけでも心地よくなれるものです。それと同じように、物語で描かれているものや文章の素晴らしさだけでなく、朗読者の声の魅力でも愉しむ価値があるのではないかと思います。
そして、私に求められるもの
以上のような朗読を実現するためには、私は、話芸の専門家であり文学の専門家であり音楽の専門家であり声の専門家でなければならないと考えています。
posted by rodoku_DB at 2010-08-21
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朗読を考える